その1)イケメンな男たちの何らかのセクシーさを競う対決を経て、学校へ向かった。校舎横の小さな校庭では、小中学生くらいの生徒たちが遊んでいた。野球部らしき少年たちは、そこで投球とバント練習をしていた。そのボール(硬式)が、道路を歩く俺の方へバウンドしてきた。俺はボールをキャッチし、軽く投げ返そうとしたが、ボールの縫い目が手にくっついてちゃんと投げられず、言い訳しながらほぼ手渡しになってしまった。
その後、小さな校庭の中にある控え所(離れ家?)のような小屋に入り、卵おじやっぽい昼食を食べながらテレビを見て、次の授業が始まるのを待っていた。


<解釈その1>
食物・・・一般に、心身、感情、魂のための栄養。考えとアイデアのための栄養。
テレビ・・・一般に、自分自身をいっそうよく見る手段。どのように状況に対処しているか、その方法。自分とのコミュニケーション。

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【現況】作曲家もスポーツ選手のように地道な練習が必要なのかなと思いつつも、インスピレーションを常時得られるようになるには、反復的な努力とはちょっと違った方向性だとも思った。そもそも、何かやらなければならないと義務的強迫的に思っている時点で「苦しさのある努力」(古い教義)なので、それを望まない真の自己からは離れている。どのみち気力が充実してこなければ、何もやりようがない。背中の疲れもまだ残っていると感じている。
【洞察】
1.投げるのは得意(習った覚えすらない)なはずだが、ボールの方が抵抗している。創作の向上に求められるのはスポーツ的な練習とは違う、あるいは、まだ創作(野球は自分にっとって創作のシンボルの一つ)をやる時機ではないと言っている。
2.次の学びがやってくるまでは、心身の栄養を摂り(米+卵→身体的なエネルギーや、自分の作品の素材となるアイデアの喩えか)、テレビでも見てリラックスせよということ。控え室なので、これらは一時的なことであり、過渡期にあると思われる。今は人生の昼休みのようなもの。




その2)(夕方のうたた寝の夢)直前まで読んでいたマンガについて、自分だったらストーリーや設定をこうするといったビジョンを浮かべていた気がする。さらに、それがアニメ化された際の、独自の設定なども挙げていた。